ウィリアム・メレル・ヴォーリズ

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ

明治38年(1905)2月2日、寒風吹きぬく近江八幡駅に一人の米国人青年が降り立った。その名はウィリアム・メレル・ヴォーリズ、24歳。
昭和39年(1964)、83歳の生涯を終えるまで、彼は近江八幡市に留まり、キリスト教伝道とその主義に基づく社会教育、出版、医療、学校教育などのすばらしい事業を続けた。
そして、これらの事業を経済的に支えるべく、吉田悦蔵や村田浩一郎をはじめとする新生近江商人たちをはじめ、多くの人々と力を合わせて、建築設計会社とメンソレータム(現メンターム)で知られる製薬会社などの企業活動を全国展開していった。
彼の数々の足跡は今なお多くの文化遺産として我々の生活の中に息づいている。

英語教師として来日(明38)

近江商人の士官学校と言われた滋賀県県立商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)の英語教師として来日、ここで多くの近江商人を目指す若き青年たちと出会うことになった。
ところが、人なつっこいヴォーリズの人気の高さは逆に宗教的な対立を生み、わずか2年で教師の職を解かれてしまった。
だが、ここで話は終わることはなく、彼と近江商人の卵たちとの熱ききずなは、彼を生涯近江八幡の地に留めることになった。

キリスト教の伝道

近江ミッション
「ミッション」には「伝道」「伝道団体」などの意味があるが、この場合は「近江伝道団体」ということであろう。それゆえ「近江ミッション」はヴォーリズの来日と共に始まり、「ヴォーリズ合名会社」や「近江セールズ株式会社」は「近江ミッションの活動資金調達組織」と考えても間違いではない
明治35年(1902)カナダのトロントで開かれた学生宣教義勇軍の大会に出席し、ここでテイラー女子の講演に感銘を受け、外国伝道への献身を決意した。

建築事務所の設立

彼はいったん帰国して翌年、建築家レスター・チェーピンと共に再来日し、商業学校を卒業したばかりの吉田悦蔵青年と3人で、キリスト教伝道のかたわら生活の糧を得るために建設設計の仕事をスタートさせた。

一柳満喜子との結婚・日本人に帰化・改名

大正8年(1919)、彼は38歳で日本人女性一柳満喜子と結婚。
日米関係が悪化してきた昭和16年(1941)1月、ヴォーリズは満喜子夫人の一柳(ひとつやなぎ)の姓を名乗り、名前も米来留(めれる)と改めた。
写真は八幡神社の神前で誓いを読み上げるヴォーリズ。キリスト教の伝道のために日本にやって来ながら神前に立つことになろうとは…彼の心中はいかばかりであっただろうか。
同年12月8日未明、日本の軍隊は真珠湾を攻撃し、第二次世界大戦が勃発した。

幅広い活動範囲

メンソレータムとの出会い(近江兄弟社の設立)、医療・教育活動の展開、図書館の設立など建築のみならず様々な分野で勢力的に活動を続けた。
ヴォーリズが設計した建物は全国で教会や学校、ホテルなど1600件にものぼり、 1937年に設計した豊郷小学校もそのうちのひとつです。

近江八幡名誉市民として永眠

昭和32年(1957)8月、ヴォーリズは軽井沢でクモ膜下出血のため倒れ、そのまま約7年間の療養生活に入った。
昭和39年(1964)5月7日昇天。ヴォーリズ83年と6ヶ月の生涯であった。
クモ膜下出血で倒れたヴォーリズは翌年、近江八幡市名誉市民第一号となった。(中略)葬儀は「近江兄弟社」と「近江八幡市」の合同市民葬であった。